整体的視点 野口整体にまつわる日常の記録

活元運動の効果

ここ数日活元運動を集中してやった。

今回ほど活元運動の効果が実感したことはなかったので
今まで何をやっていたんだろう。。と反省すらした。

忙しい忙しいと言いながら、体をおざなりにして
結局は自分で自分の首を絞めていたようなものだった。

最近は情報の量がとてつもなく多いから
頭だけを働かせることが本当に多くて
体からの信号(インスピレーション)を受け取ることが難しくなっている。

PCがオーバーワークでフリーズしたり
虹色の円がくるくる回っているような状態で
無理矢理現状を変えようとしても当然うまくいくはずはなく。

うまくいかない上に無駄に作業量が増えるような。。。

まさにここ数日。いや数ヶ月そういう状態でいた事に私自身気がつかず
集中的に活元運動をした事で、やっと正常な身体感覚を取り戻すことができた。

体が整っているとこんなにも自由なのかと改めて思った。

体に油を差したように動けるようになり
翌朝の目覚めもすっきりしている。
余計なことを考え出さないし、悩みがあっても卑屈にならない。

やはり悩みや不安は、頭の中だけで起っていることなんだなと痛感した。

これだけ多くの人が何かしら関わりあって生活しているのだから
全てが思い通りに行くとか、全く悩みがないという状態はないわけで
大事なことは「じゃあどうする?こうしよう!」という建設的な考えが出来ることだ。

そうなると、迷うことがない。
目的を見失うことがないというか。

体がギシギシしていると
知らない間に不快感に足を引っ張られて
正常に頭が働かない。

無意識的に不快感に支配されているから
当然異常にも気づかない。
気づいた時には相当良くない状態だったりして指導に駆け込む。

指導の後、腰が伸びて充実すると
肩の力が抜けて頭がすっきりするのは毎回実感するのだけど
日常で腰を使うということが今ひとつ体感できていない。

先日参加した活元会で
体を使うということはどういうことですか?
という質問をした。

先生は観察のことを指摘された。
異常感というのはわかって当然。
でもその異常を感じる前の状態を
きちんと感じることで自分の状態を知ることができる。

どう感じているかを細かく意識することで
感覚というのは育っていくとおっしゃっていた。

例えば、お小水の出がすっきりしていたとか、
あるいは出が悪かったとか

台所に立った時、今日は体がこんなだなとか
日常のちょっとした中で意識して感じる。

意識する時間を決めて持つと感覚の違いがわかりやすい。

「どんな感じ」というのはなかなか言葉にするのは難しい。
その、言葉になる以前の状態を味わう、ちゃんと感じる。
感覚を育てていくことが自身の健康を守るということに繋がるのだろう。

ちょっと気の遠くなるような話だとも思うけど、、

でも。
これを食べたら血液がサラサラになってとか
これをやめたら健康になるとか
バナナダイエットとか一食置き換えダイエットとか
これだけ!的な
誰に向けて発信したのかわからないような
大雑把な万人向けのマニュアルの健康法は飽和状態なんではないかと。

自分の健康を自分で守るということは
自分にしかわからない微細な感覚を
きちんと把握できているということなんだと思う。

このことが理解できたら
野口整体でやることが治療ではないということがわかる。

野口先生は整体を体育と位置付けられた。
(実際に整体協会は文部科学省から認可を受けた体育団体となっている。)

頭に支配されずに
感覚を育てて自由に体を使いこなしていくためには
育てるという意識が必要なのだ。

そのためのメンテナンス、
訓練(稽古?)、確認作業として
個人指導があり
活元運動がある
と今は思う。